人生の相対性理論(23)


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幸福感の基準点

 「自己主義」は、自分に利することになればどんなことをしてもいいという利己主義とは違うと言いましたが、とはいえ、自己主義と利己主義の区別は難しいかもしれません。
 政治資金を家族旅行や家族との会食、自分の趣味に使っていた都知事が糾弾され辞職に追い込まれるという事件がありましたが、彼の論理では「自分や家族の幸福を行動の基準点に置くことが正しいなら、私がやったことは何も間違っていない」となるのでしょう。
 しかし、政治というのは人々の幸福最大値をさぐる仕事です。政治家が仕事に対して抱く幸福感は、他人を幸福にする方法を探り出し、合理的、効率的に実行していくことにあるはずです。
 もとより人は社会的動物なのですから、自分だけが幸せになるということはありえません
 自分にとって心地よい世界が必要であり、その世界には自分以外の人間が共生しているわけですから、自分が行う仕事によって他人が幸せになることも、自分にとっての重要な幸福要因となるはずです。
 政治家が人々を幸せにすることに職業上の幸福感を感じることなく、自分や家族の利益のために公金を使い、他人に不利益をもたらす、他人の不幸を増すことを平気で実行するというのは、正義不正義以前に、一種の病気、精神障害なのだと考えられます。
 生き物が苦しむのを見て悦楽に浸る人がいますが、それは一般にはサイコパス、精神障害の一種と見なされます。
 他人の迷惑や痛みを考えることなく、いきなり女性のお尻を触ったり、預かった他人のお金でギャンブルをしたりする人もまた、病気であるとみなされます。
 となれば、政治家個人の資質を糾弾するよりも、病人たちに政治を任せていいのか、という問題であり、そういう事態を招かないようにするにはどのような改革を進めるべきかという議論こそが重要になるはずです。
 自己の幸福を基準点にすることは「絶対的に正しい」のですが、幸福感の幅が狭かったり、幸福感を得るための基準点が間違っていれば、この大前提は成立しません。
 基準点を間違えた幸福感は正しい自己主義につながらないのです。  


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