そして私も石になった(21)


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「終末」の迎え方


「人間社会が終わることは仕方がない、というのは分かった。でも、その最後が、Gの思惑通り、計算通りというのが気に入らないな」

<悔しくて、死ぬに死にきれないか?>

「そうだな。俺はどっちみちもうすぐ死ぬから、この世の終末とやらは見届けないで済むだろうよ。でも、あんたの話を聞いたことで、穏やかな気持ちで死ねなくなったじゃないか。さっき、あんたは、俺が人生の最後の時間を、新しい感覚に包まれて過ごせるように、とかなんとか言っていたよな。逆じゃないか」

<何も知らないほうが楽に死ねたかい? そうならすまないことをした。
 でも、きみもそろそろ気がついているんじゃないかい? きみの肉体の死は、きみにとっての「世界」の終末だ。きみの肉体が消えれば、きみは「世界」を感じられなくなるのだから。
 あらゆる物質が、いつかは消える。つまり、それぞれの「終末」がある。きみが今生きているこの世界もまた、同じように終末を迎える。
 ……そんなふうに、今自分が生きている物質世界を「突き放して」考えることで、穏やかな死を迎えられるんじゃないか?>

 穏やかな死……か……。
 まさに俺は長いことその課題と向き合ってきた。歳を取ってからのことではない。日本が戦争に負け、大陸から命からがら引き揚げてきたときからずっと、俺は自分の死に方について考え続けてきた。
 できることなら、穏やかに死にたい。ある夜、カエルの声を聴きながら眠りにつき、そのまま起きなかったというような死に方なら最高だ。
 それを思い起こしながら、俺はNに言った。
「俺たちの先祖は、山や樹木や石に神が宿っているというような、自然信仰的世界観を持っていた。そうした深く、静謐な精神性は時代とともに薄れていったけれど、今でも残っている。
 神社の祭神が山そのものだったり、キツネが神の使いだとか、巨石にしめ縄をつけて祈りを捧げたり……そんな形でね。
 俺はそんな世界観に包まれて死んでいきたいと思っている。若い頃からずっとそうだった。
 この山村にたどり着き、この廃校に棲みついたのも、ギスギスした都市の文化から離れて、自然の中で静かに暮らしていくのが自分の生理に合っていたからだ。
 気がつくと、数十年の時間が過ぎていて、いつ死んでもおかしくない歳になっていた。
 俺が見ているこの物質世界は「世界」のすべてじゃない。それを含むもっと多元的な世界があるんじゃないかと想像することで、俺はすでに一種の自己暗示をかけて死ぬ準備をしていた。死への恐怖を和らげるために。
 量子の話に興味を持ったのも、その漠然としたイメージが、あながちただの妄想ではないんじゃないか、というヒントのように思えたからだ。
 だけど、あんたの話に出てくるGは、静謐なイメージとはほど遠い、やたらドロドロした、生臭い生き物だ。ある意味、人間以上に人間臭い。そんな生き物にコントロールされた世界で死んでいくなんて、冗談じゃない。救いがなさすぎる」

<そうだね。Gは人間とあまり変わらない生物だ。しかも抽象的な芸術性や笑いを解さない機械のような連中となれば、ある意味「下等生物」だよね。
 でも、それを知ることで、きみは、漠然とながら感じている「静謐な世界」に近づけるんじゃないかい?
 Gが人間より優れている点はなんだ? 進んだ科学技術を持っているという知能か? しかし、そんなものは高性能なAIが代替できる。Gの脳よりはるかに性能のよいAIは、人間の手で着々と作られようとしている>

「この先、人間がGを追い越すときが来るかもしれないということか?」

<いやいや、全然違う。そんなことはどうでもいい。
 たとえ人間が、知能──脳の性能(ヽヽヽヽ)という点でGを追い越せたとしても、それは所詮、物質世界の解釈とか、科学技術のレベルでのことであって、物質世界のことしか見えていないことに変わりはない。
 Gは高度な科学技術を使ってこの物質世界を支配できたかもしれない。だけど、Gが支配できたのは物質世界だけだ。
 その点でも、Gは人間と同レベルにある。
 例えば、Gは量子の存在を知っている。量子の考え方を使った理論や数式も知っている。量子理論を使ったコンピュータの仕組みも知っている。その内容は、人間が現時点で理解できているよりも進んだレベルにある。
 でも、量子についての完全な理解はできていない。量子の先にある世界は見えていない。そこは人間と同じだ。
 それがGの限界なんだ>

「Gの進化が限界に来ている? ということは、発展途上の人間のほうが可能性を持っているってことじゃないのか?」

<可能性……か。確かにそうかもしれない。
 ただ、それは物質世界での能力の優劣で勝つということではない。
 私が言いたいのは、物質世界という単相の世界にとどまらず、それを包んでいる複相の世界に想いをはせる能力は、Gよりも人間のほうがあるんじゃないか、ということだよ。
 私が今きみにこうして話しかけているのは、きみの中にその要素を色濃く見ているからだ>

「俺はあんたに見込まれたってことか? それは買いかぶりだろう。俺はただの無学なジジイだ。もうすぐ死ぬし、何の力もない」

<きみを使って何かをしようとか、そういうことじゃない。ただ、きみを観察していたら、無性に話をしてみたくなっただけさ。
 さっき言っただろう? 今自分が生きている物質世界を「突き放して」考えることで、穏やかな死を迎えられるんじゃないか、と。
 「穏やかな」というのは、少しニュアンスが違うかもしれない。衰えていく一方の肉体から離れて、今までの世界観から解放される死、とでもいえばいいのかな。
 きみという肉体が物理法則に従って時間とともに劣化し、消滅する。これは物質世界の中では当然のことであって避けられない。
 きみという肉体が生きているこの物質世界や人間社会もまた、物質の集合体である以上、劣化し、消滅することは避けられない。
 人を含めた生物の命が、他の生物、あるいは同じ生物によって消されたり利用されたりするのは自然に起こりうることで、仕方のないことだ。
 この人間社会にこれから起こることは、特別なことではない。きみの感情としては耐えがたいことかもしれないけれど、同じようなことは過去何度も起きてきた。……そう突き放して考えることで、物質世界に縛られない複層的世界への入口が少しだけ開いて、何かを感じながら死ねるかもしれない。
 その「何かを感じる」という能力は、Gにはないものなんじゃないかな。
 しかし、Gの価値観、世界観からすれば、そんな理解不能なものを漠然と「感じた」ところで、なんの得にもならない。
 実際、なんの得にもならないのかもしれない。感じようが感じまいが、肉体は消えるのだから。
 でも、きみはその「何か」を感じたいと思っている。この物質世界とは違う「何か」が存在する複層的な世界を求めている。
 違うかな?>


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ジャンル分け不能のニュータイプ小説。 精神療法士を副業とする翻訳家アラン・イシコフが、インターナショナルスクール時代の学友たちとの再会や、異端の学者、怪しげなUFO研究家などとの接触を重ねながら現代人類社会の真相に迫っていく……。 2010年に最初の電子版が出版されたものを、2013年に再編。さらには紙の本としても2019年に刊行。
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