用務員・杜用治さんと野良猫の会話

森水学園本校校舎がまだあった当時、校舎には杜 用治(もり・ようじ)さんという用務員さんが常駐していました。
用治さんがどういう経緯で森水学園本校校舎に住み込むようになったのか、今となっては事情をよく知っている者がおりません。学園長の森水生士は、「特に雇ったということはないんだがなあ……」と、のんびりしたことを言っていたようです。
森水学園は私塾ですから、普段、生徒が通ってきているわけではありません。何か催し物や特別講義などがあったときに人が集まってきますが、用治さんが普段から校舎の手入れをしてくれているので助かっていました。
用治さんが本校校舎(村の廃校を森水が借りた)に棲みついたのは1970年代終わりくらいだったでしょうか。その頃はまだ50歳前後でした。
本校は2008年に解体され、なくなってしまいましたが、その話が出た2006年頃、用治さんは誰にも何も告げずに姿を消しました。
すでに80代後半だった用治さんのことを、村の行政や周囲の住民は心配していました。用治さんもそれを感じていたでしょう。そんなとき、廃校校舎が解体されると知って、ここが潮時か……と、ひっそりと出て行ったのだと思います。
「まるで、死期を悟った猫がある日ふっと消えるような感じだった」といいます。
その後の行方を知る人はいません。

用治さんは社交的とはいえないまでも、偏屈というわけでもなく、村の人たちや学園関係者とはよく話もしていました。
しかし、自分の出自や経歴についてはほとんど何も話さなかったそうです。

用治さんが姿を消してから、「用務員室」(用治さんが寝泊まりしていた部屋)の押入から、何冊ものノートが発見されました。
内容は非常に不思議なものなので、簡単には説明できません。日記のようでもあり、小説のようでもあり、哲学書のようでもあります。
親族の有無も不明なので、そのノートは学園事務局が引き取りました。
用治さんはもう生きているとは思えません。本人の気持ちはよく分かりませんが、ここに少しずつ紹介していこうと思います。

のぼるとの会話


いつからか、猫が通ってくるようになった。
食い物を分けているうちに、俺はその猫と話ができるようになった。
話ができる、というのとは少し違うかもしれない。
俺が眠っている間に見る夢の中に、その猫が出てきて、俺と会話をするのだ。

目が醒めたときに覚えている夢は、起きる寸前に見たものだけだという。
実際にはそれよりずっと長い時間、夢を見ているが、起きたときにはすっかり忘れているらしい。
しかし、歳を取るにつれ、なぜか俺は、起きたときに覚えている夢の「量」が増えていった。最初はそういうものなのかと思ったが、誰に訊いても、そんなことはないという。
だから、多分、俺の脳は普通の人間とは少し違うのだろう。
猫との会話は、夜よりも、昼寝しているときのほうが多い。
起きると、そばに猫がいるわけではない。
だから、「猫と会話している」というのとは少し違うかもしれない。
とりあえず面白いので、忘れないうちにその「夢の中の会話」をこのノートに記録しておくことにした。

そうそう、猫には「のぼる」という名前をつけた。理由は特にない。

「現実」とは何か

俺俺:俺はなぜおまえさんと話ができるんだ? そもそもおまえさんはのぼるなのか?
あたしはあんたが「のぼる」と名前をつけたネコの実体だよ。
あんたが「現実」だと思っているこの世界では、あたしはネコという動物で、ネコの肉体に縛られている。脳みそもあんたよりずっと性能が悪いし、寿命も短い。
でも、あたしの「実体」は別にある。眠りに落ちて、肉体の制限から少しだけ解き放たれている間、あたしはあたしの実体に近づける。
俺ということは、俺もおまえさんも、肉体とは別の「実体」があるのか?
その通り。あんたの実体は、肉体に縛られているこの世界とは別のところにある。あんたらは寝ている間にその実体に戻りつつあるんだが、起きた瞬間に忘れてしまい、また肉体という入れ物に閉じ込められる。だから、肉体に縛られている間は、肉体が認識する世界しか見えないし、感じられないのさ。
今、こうしてあんたと話ができているのは、あたしもあんたも肉体という入れ物から解き放たれて、実体に戻りつつあるからさ。
完全には戻らず、「戻りつつある」というのは、完全に戻れるのは肉体が滅んだ後だからさ。
で、人間ってやつは欲が深くてね。その分、こうして夢の中でも、実体の世界のことは見えてない。中途半端な段階とでもいうのかな。
この中途半端な段階での会話も、あんたは目が醒めれば忘れている。あたしもまた、眠りから醒めたときはネコという肉体に閉じ込められている、ってことだね。
もう一つ。
あんたが「現実」だと思い込んでいる「肉体と物質に縛られた世界」では、あんたのほうがあたしより威張っていられるけど、こうして眠りの中で夢を見ている間は、あたしのほうが世界の真相をずっとよく知っている。欲が少ない分、実体の世界に近づけるんだな。
だから、ここではあたしがあんたの教師だ。
フフフ……うまくできてるよね。

……どうも、そういうことらしい。
ただ、のぼるは気がついてないようだが、俺はなぜか、目が醒めてもしばらくの間は、夢の中の会話を覚えている。なぜなのかは分からないが……。

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