用務員・杜用治さんと野良猫・のぼるの会話(5)


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精神と肉体は別物なのか?


俺俺:  霊肉二元論に似ているけど、精神とか「心」ってのは、肉体とは別のものなのかね。「心」が脳の活動だとするなら、脳は肉体の一部だから、心は肉体の一部ってことになるはずだが……。
物質世界ではそういうことだね。「心」って言葉は分かりにくいけど、精神活動っていうことなら、まさしく脳の活動の結果だろ。

俺 健全なる精神は健全なる肉体に宿る、なんていうが、それは正しいってことか?
健全な肉体ってどんな肉体なのか分からないけど、精神とか心は脳の活動の産物なんだから、脳が壊れたら心も壊れるわな。

俺  だけど、肉体は生まれたときにある程度性能が決まっているじゃないか。性能のいい肉体、性能のいい脳を持って生まれた者とそうでない者がいるってのは不公平じゃないのか?
しょうがないんだよな、それは。たまたま、だからさ。

俺  また「たまたま」かよ。おまえの名前は「たま」にしておけばよかったな。
だがなあ。ものすごく性能のいい脳みそと肉体を持って生まれたやつが、とんでもないサディストで、ネコをこっそり捕まえては虐待して喜んでいる、なんてこともあるわけだ。そういうやつを指して、「心が汚れている」とか「精神が壊れている」なんていうわけだろ。そういうのも全部「脳」のせいなのか? 生まれたときにそういう脳を持って生まれたら、それっきりなのか?
性格とか嗜好とかは、脳を含めた肉体にかなり支配されていることは確かだよ。あたしらネコも、茶虎に生まれるか黒猫に生まれるかでかなり性格が変わったりするからな。そういうのはしょうがないんだよ。
ただ、脳をある程度コントロールするものが存在するのも確かだな。
肉体が夢を見ているとき、夢の中で起きていることを脳は完全にはコントロールできないけれど、夢の中で怖がったり、喜んだりする「自分」がいるだろ。それを逆に見てみればいい。
物質世界で肉体がしていること、考えていることを、どこかで見ている、肉体に閉じ込められていない「自分」があるんじゃないか……とね。

俺  それが「心」じゃないのか?
いや、心とか精神っていうのは、あくまでも物質世界の中であんたら人間が考えている「概念」だから、脳の産物なんだよ。経験とか記憶とか学習とかでどんどん変わっていくし、変えられる。
変える力はやはり脳や肉体から生まれる。
でも、それを離れたところから、夢を見ているような感覚で見ている「実体」も、直接は手を下さなくても「ああ、それはまずいな」とか「こうしたほうがいいのにな」みたいなことを感じているかもしれない。
あともう一つ言えるのは、あたしらが夢を見ているとき、夢の中のことは制御できないけれど、この物質世界でのことは、肉体を使ってある程度制御できる。もちろん、その「ある程度」は肉体や脳の性能にも左右されるだろうし、運の要素はもっとはるかに大きいけどね。まったくコントロールできないわけじゃない。だから、この物質世界にいる間は、肉体を卑下するんじゃなくて、肉体をうまく使う、精一杯使って面白い物語を作るしかないんだよ。
あたしは面倒だからそんなのはどうでもいいけどね。あんたはあたしよりずっと性能のいい肉体を持っているんだから、頑張れや。

俺  何を調子のいいことを言ってるんだろねえ。それにしても……なんだか分からんな。
そりゃあ、分からないさ。「全部」はね。
分かっているのは、あたしもあんたも、死んで肉体を失えば、この物質世界で得た体験や記憶は脳と一緒になくなるってこと。
ただ、肉体に閉じ込められたときのあたしは、あんたのそばにいて心地がいい。あんたもあたしの身体を撫でて、気持ちがいい。
その関係には、脳とか肉体だけでは説明がつかない何かがありそうだよな。
その「何か」は、真層世界に戻ったときにも、同じような関係性を持っているんじゃないのかね。


……まあ、そうだといいな。お互い……な。

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