人生の相対性理論(2)


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■  §1 人生という「時間」を相対化する

 アインシュタインの相対性理論は、ものすごくザックリいえば、「時間というものは一定ではなく、変化する」という理論とでもいえるでしょうか。
 人はなんとなく、「時間」というものは一定で共通で絶対だと思っていますが、実はそんな「絶対的な時間」など存在せず、すべての物体(生物も含めて)はそれぞれ「個別の時間」を持っている。しかもその時間は時間を計る相手によって変化する。つまり「時間というものは相対的なものである」というわけです。
 そこで、人生という、人それぞれの「個別の時間」の相対性について考えてみます。

歳を取ると時間が速く流れる

 歳を取ると、若いときよりも時間が速く流れていくように感じます。
 この現象を「心理学的に」説明しようとしたのが、19世紀のフランスの哲学者ポール・ジャネが考えたという「ジャネの法則」です。
「50歳の人間にとって1年の長さは人生の50分の1だが、10歳の子供にとっては人生の10分の1に相当する。だから、50歳の人間にとっての1年は10歳の子供の5分の1の長さに感じられる」といった説明がなされています。

 なるほど。そう大きくは外れていないかもしれません。

人が生まれてから今までの時間に等間隔の目盛りをつけたものを仮に「時間モノサシ」と呼ぶとしましょう。そのモノサシが50cmの長さなら、10歳の子供が持っているモノサシの1年は5センチですが、50歳の人の1年は1センチしかない、というわけです。
 別の言い方をすれば、「人にとっての時間の速さは人生経験の量と相対性の関係にある」ということです。

時間の速度は生き方の質と相対する

 「時間モノサシ」の目盛りは、年齢だけで決まるものではありません。
 私は小学校6年間と中学・高校の6年間がものすごく長く感じましたが、それは「早く大人になりたい」と思っていたからです。
 特に中学・高校(男子だけの一貫校でした)の6年間は毎日が苦痛でしたから、一日がとても長く感じました。
 なんでこんなつまらない授業をじっと聴いていなくてはいけないのだろう。この時間にもっと他の有意義なことができるはずだ。なんで女の子のいない環境で6年間も耐えなければいけないのだろう。男子校に入ってしまったのは一生後悔してもしきれない失敗だった……と、毎日嘆いていました。
 卒業アルバムの一言欄に「退院です」と書いて物議を醸したりもしたのですが、本当にあの6年間は長く感じました。多分、刑務所で刑期の残りを数えながら暮らす囚人も同じような時間の流れを感じているのではないかと思います。
 その6年間があまりに苦痛で長く感じたので、大学に入ってからの時間はあっという間に感じました。
 毎日キャンパスの中で素敵な女の子を探しては追いかけ、プロ作曲家としてデビューするためにいろいろなことに挑戦して、そのための資金を作るために休みには環境調査の会社で河川の水質検査などのバイトをして、夜は家庭教師をハシゴして……。
 それまでとはまるで違う速度で時間が流れていきましたが、60代になってこうして振り返っている今では、その数年間がとても長い時間だったようにも感じます。

時間の長さではなく「質」を問う

 時間を「長さ」ではなく「質」で相対化することはとても重要な視点です。
 毎日、何が起きるか分からないスリリングな仕事を楽しくこなしている人と、毎日つまらないルーティーンワークの繰り返しに明け暮れて刺激のない人では、携えている時間モノサシの「質」が違います。
 スリリングな生活をしている人の時間モノサシはミリ単位で目盛りが刻まれているのに、単調な生活を繰り返しているだけの人の時間モノサシはセンチの単位でしか目盛りが刻まれていないかもしれません。そうなると、同じ1センチの時間が流れても、スリリングな生活の人はミリ単位の目盛りが十個も通り過ぎるのに、単調な生活の人はようやく一目盛りしか進まない、ということになります。

 もう1つ分かりやすい例を挙げるなら、旅行の楽しさや価値もそうでしょう。
 目的地までいかに時間をかけずに「早く」たどり着けるかということで考えれば、青春18きっぷよりも飛行機や新幹線のほうがいいに決まっています。
 しかし、旅行の楽しみは目的地に着いてからだけではありません。移動中の時間をゆったり楽しむという価値もあります。そのほうが時間モノサシの目盛りが細かく刻まれ、密度の高い経験ができます。
 最近のテレビでは、路線バスの旅とか、徒歩で旧街道を行くといった旅番組が増えましたが、「旅の醍醐味は道中で出会う予測不能な出来事や人とのふれあいだよね」と気づいたからでしょう。
 パックツアーなどでは、こうしたハプニング性はリスク要因であり、排除すべきものとみなされます。決められたスケジュール通りに移動し、決められた場所で決められた食事をとる。決められた観光目的地で用意された案内を聞き、決められた時間内に決められた物を見てバスに戻る……。これでは遊園地のアトラクションのようなもので、「観光旅行」ですらないように思います。
 外国人バックパッカーなどの中には、観光地と呼ばれる土地に行っても、民宿に連泊して、一日中部屋に寝転んで本を読んだり、道をたずねたその土地のばあちゃんと仲よくなり、農家の縁側で一緒にお茶を飲んで、半分も通じない会話を楽しんだりする人たちがいます。彼らにとっては、観光地というのは決められたものではなく、自分が楽しいと感じられる場所のことであり、旅の楽しみは自分で決めるものなので、それは普通の行動なのです。
 日光に行ったら東照宮を見なければならない、ということはありません。その手前の今市の町をブラブラしているうちに知られていない小さな神社ですごい龍の彫り物を見て、老夫婦がやっている定食屋で600円のおいしいヒレカツ定食を食べ、地元の人に教えてもらった名もない滝を訪ねたら、誰もいなくて最高にいい雰囲気を楽しめて、結局、東照宮も華厳滝も見なかった……という旅でもいいのです。
 観光地に来たんだからいっぱい「観光」しなくちゃ ……と、先を急ぐような旅は、記憶にも残りません。むしろ、「あそこで急に大雨が降ってきて、飛び込んだ駄菓子屋さんで出されたお茶がうまかったなあ。あのときのじいさん、まだ生きているかなあ……」というような想定外の出来事が一生の想い出になったりします。
 阿武隈での7年間で友人になったKさんは、原発爆発後に悩んだ末、佐渡に移住しましたが、こんなことを言っています。
日常から非日常への移行時間(過渡期)、変化すること自体が、楽しみや感激につながる。旅や祭り、山歩きなども、非日常としてのストレス解消などではなく、実は自分の日常への大いなる肯定として無意識につながったときこそ感動できるのではないか。
だから、時間というものも、矢のように一直線に過ぎていくものではなく、自分の日常、自分の生き方の中で不断に生成してゆくものなのだととらえること、そういう時間の過ごし方を取り戻すことが大切なのではないか。
 彼は、佐渡にはまだそうした生き方、風土が残っていると思う、と語っています。



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