用務員・杜用治さんのノート(7)


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森水生士校長と量子論の入口を探る?


森水生士校長はときどきやってきて、数日、用務員室の隣の部屋に泊まっていくことがある。そんなとき、俺と森水校長は酒を飲みながら、雑多な話を交わすのだが、いくつか印象に残っている会話を再現してみる。
以下の会話は、森水校長が亡くなる少し前、1977年11月16日の夜に交わされたものだ。

1977年11月16日

●森水生士校長: 用治さんは趣味とかはないのかね。

俺俺:  趣味ですか? 分からんですね。そもそも趣味ってどういうのをいうのか。楽しいこと、ってことですかね。
校長: 楽しいけれどあまり役に立たないとか、仕事じゃないとか、ついつい根を詰めてしまうけれど、他人から見たらよく分からないことを熱心にやっているねえ、みたいなことかねえ。

俺 だったら、掃除ですかねえ。楽しいと思ったことはないけれど、気がつくとやっているし……。
森水校長はどうなんですか? 専門は生物学なんですよね。
一応そういうことになっているけどねえ。頭がどうも理系じゃないんだよ。計算とか、とても苦手でね。学生の頃は試験でよく単位を間違えたね。ゼロが1個多かったり少なかったり。
本当は小説家とかになりたかったね。しかし、文才もなくてねえ。
用治さんはどうなの? ときどきノートに何か書いているようだけど、小説とか詩とかなの?

俺 そんな洒落たもんじゃないですよ。日記みたいなもんですかね。俺も文才がないもんで。
小説を書くような人は、生まれつきそういう脳になっているんじゃないですかね。
そういえば、中学生のとき、同級生に「将来は作家になるんだ」と言っていたやつがいましたよ。幸田(こうだ)くん、っていったかなあ。普段は目立たない、成績も中くらいで、小太りの、もっさりしたやつでしてね。俺と特に仲がいいわけでもないのに、ある日、休み時間にツカツカっと寄ってきて「絶対に自信がある小説のネタを2つ持っているんだけど、聞きたい?」と言うんですよ。俺が聞きたいか、というより、そいつが話したいわけですよね。で、聞いてやったんです。
ほう。面白そうだね。どんなの?

俺  1つ目は「癌人間」っていうネタでしたね。癌細胞がどんどん増えていくと人は死んでしまうわけですけど、ある男が、癌になってもなかなか死なない。癌はどんどん広がって、ついには全身が癌細胞でできた癌人間になる、という話なんですけどね。
……それがオチ?

俺  オチが弱いですよね。その癌人間って、それからどうなったんだ、と訊いたら、「そういう『死なない癌』が広まって、やがては世界中の人間が癌人間に入れ替わる。実は癌細胞は肉体を求めていた生命体だった……みたいなことにしようかな」って言ってたのかな。
うんうん。それなら面白い話になりそうだね。
もう1つのは?

俺  極大と極小は同じものだった、というような話でしたね。
二人の仲のよい天才博士がいた。A博士は「宇宙の果て」を探求していた。宇宙に果てはあるのか、あるとしたらその果ての先はどうなっているのか……と。空間はどこまでも広がれるのか、みたいな極大世界の謎に挑戦した……。
子どもの頃は誰もがそういうことを考えるよね。時間もそう。時間はいつ始まっていつ終わるのか。始まりの前はどうなっているのか。終わりの後はどうなっているのか……って。
無限という概念が、人間にはどうしても理解できない、というか、馴染めないんだよね。

俺  俺もそう思いながら聞いてたんですよ。
それで、B博士は極小世界を研究していた。物質を構成している原子だのなんだのをさらに構成しているものは何なのか、と。
うん、うん。

俺  でも、それはもう解明されているんじゃなかったですか? 俺は学がないからよく知らないですが。
いやいやいや。そんな簡単に解明できるもんじゃないよ。今も世界中の学者がその問題に取り組んでいる最中さ。
昔……といっても、つい最近、19世紀末までは「原子」がいちばん小さな構成単位だと思われていたんだけど、その原子はさらに「原子核」と、その回りをまわっている「電子」でできている、ってことが分かった。それが20世紀に入ってからのこと。つい最近のことだよね。
さらには原子核は「陽子」と「中性子」によってできている、ってことも分かった。これがほんの数十年前のこと。
で、1964年……東京オリンピックの年だから覚えているんだけど、「陽子」や「中性子」を構成するさらに小さな「クォーク」なるものがあるという予言がなされたのよ。で、5年後の1969年にアメリカでの加速器実験で「クォーク」が存在するという証拠が検出された、ってことになったんだね。
で、このクォークとか電子とかをひっくるめて、これ以上分割できない最小単位の物質を「素粒子」って呼んでいるわけだ。今のところ、これが世界を形成している最小のものってことになってるねえ。

俺 はぁ……そうなんですか。なんかもう、どうでもいいや、って感じですが。
で、幸田くんの小説のネタに戻るとですね、B博士はその極小世界に入り込むことに成功するわけです。それが「素粒子」なんですかね。ついにこの世界の極小のものを見極めたぞ……と感激したそのとき、素粒子の世界の向こう側から一人の人間が現れた。それがA博士だった……と。
A博士は宇宙の果てを目指して、ついには宇宙の果てと思われるところに到達したんですが、その向こう側に一歩踏み入れたら、極小世界を目指していたB博士と出会ってしまう……という、そういうお話でしたね。
幸田くんは「どう? すごいだろ」って得意げに言っていましたけどね。
まあ、面白いですかね。どうやって小説の形にするかが難しそうですが。現実感のない話だから、童話みたいにしてしまうしかないような気もしますね。
まあ、そのへんはいいじゃないか。あとはその幸田くんの腕次第ってことで。
でも、それって凄い話だよ。ある意味、この世界の構造というか、なにか見えない真理のようなものを言い当てているんじゃないかな。

俺 どういうことですか?
つまり……あらゆる物質は原子でできているわけだよね。この酒瓶もコップも、それを持つ我々の指も……。
で、原子というのは、原子核の回りを電子がまわっている、という説明がされているわけだ。
原子核と電子の距離はおよそ0.1nm(ナノメートル)くらい。

俺 ナノメートルって……。
10億分の1メートルだね。100万分の1ミリメートル。これが大体、原子の大きさと考えていいね。もちろん目に見えるような距離じゃない。
で、原子の中心にある原子核の大きさはというと、100万分の1ナノメートルくらい。つまり、原子核の大きさは原子核と電子の距離の10万分の1……逆に言うと、原子核と電子の距離は、原子核の大きさの10万倍なわけだ。
原子核を直径1mmのごま粒くらいだとすると、その10万倍は10万ミリメートル……100メートルだ。その間は真空なわけで、スカスカなんてもんじゃない。ごま粒はほとんど無視できる大きさってことになる。そういうスカスカの原子がどれだけの数集まっていても、スカスカはスカスカなわけだ。それなのに、我々の指は酒瓶やコップをすり抜けることなく摑めるし、固いものに触れているという感触も脳に伝わっている。
……これって、実に不思議なことだよね。

俺 ……う~ん。ちょっと想像が難しいというか、実感できないですが……。
まあ、これはほんの一例なんだけれど、極小世界のことを解明すればするほど、こういう理解しがたいことにぶつかるわけ。
今の時代は、学者たちが次々にそうした難題をなんとか解明しようとあがいている時代なんだね。

物体を細かく分けていって、これ以上はもう分けられないという限界まで分割した最後のものを「素粒子」と呼んでいるわけだよね。
しかし、そもそも素粒子ってのはあまりにも小さすぎて、我々人間が普段の生活を営んでいるこの物質世界の感覚からすれば、大きさも形も質量も「ない」に等しいよね。だって、ごま粒くらいの大きさの原子核の外側100メートルくらいのところに、ごま粒よりさらに小さな電子が浮かんでいるみたいな話なんだよ。100メートル向こうのごま粒なんて、「ない」に等しいじゃないの。これはもう、数学で扱う「点」みたいなものだね。実体はないんだけれど、そこに「ある」と仮定しないと話が進まないから「点」という言葉で表現する、みたいな。
でも、無視できるほど小さくても、原子核や電子は実際に存在しているわけだから、大きさは無視するにしても、どんなに小さくても質量はあるということにしよう、と考えるわけだ。
で、大きさが無視できるくらいの「点」がスカスカの状態で集まっているのが物体の正体なのに、物体同士はぶつかって跳ね返ったり、指先で触(さわ)れたりするというのはどういうことなのかというと、その「点」が常に動いているから、って説明されてるんだよね。
最新の研究では、原子核の回りをまわっている電子という素粒子は、地球が太陽の回りをまわるような規則性のある動きをしているわけではないんだそうだ。動く範囲は決まっているけれど、軌道とか速度は決まっていない。存在はしているんだけれど、その位置や運動速度は計算不能というんだね。無理矢理イメージするなら、原子核の回りを電子がモワッと雲みたいに包み込む、とでもいうのかな。
で、その「電子の雲」同士が接近すると、これ以上はくっつけないよ、という薄い壁みたいなものが生じる。その結果、我々の指は酒瓶やコップを通り抜けることなく摑めて、こうして酒を飲むことができる……というわけ。

俺 ……う~ん。俺には難しくてよく分からんですけどねえ。だって、酒瓶もコップも指も、こうしてちゃんと見えているじゃないですか。大きさが無視できるような小さな点の集まりなら、透明になって見えないでしょ。
そうだよねえ。
そこが人間の感覚の限界なんだね。
だけど、そもそも「見える」ってのは、どういうことなのか、ってことだよ。

俺  あ~、また難しいことを……。
まあ、そう言わずに聞きなさいよ。
物体が「見える」というのは、実は物体そのものを見ているわけじゃない。物体が反射した光を見ているわけ。
もう少していねいに言うと、今こうして酒が入ったコップが目の前にある。これを私は「見ている」わけだけど、私が見ているのはコップや酒の表面が反射した光なわけ。その光が私の目に到達して、眼球のレンズを通って網膜に届き、網膜にある視細胞がその光に反応して脳に弱い電気信号を送る。私の脳はその電気信号を受け取って、目の前に酒の入ったコップがあるよ、という情報として処理する。つまり、見えていると思っているものは実体そのものではなくて、加工された「情報」なんだよ。

俺 物体そのものを見ているんじゃなくて、脳で処理された「情報」を「見ている」と思い込んでいる?
うん、そういうことだね。
言ってみれば、これは「仮想現実」だね。脳が、そこにこういうものがある、ということにしちゃっているだけで、本当にそんなものがあるかどうかは分からないわけよ。酒が入ったコップ、という概念も、それまで私が経験して学んだことを元に脳が勝手にそう処理しているだけなんだな。
我々の生活というのは、そういう仮想現実の積み重ねでできているわけ。

俺  う~ん。でも、そんなのは理論のお遊びというか、理系の人の自己満足というか、人間が生きていく上では意味がないんじゃないですかね。
うん。私もかつてはそう思っていたよ。でも、歳を取った今は、そうは思わなくなってきたんだな。
我々が見ている世界が一種の「仮想現実」だとしたら、我々の存在も仮想現実みたいなものなんじゃないか、と考えるようになったんだよね。

我々の肉体というのは、無視できるほどの大きさの「点」がスカスカの空間の中に浮いている、そういうモワッとした、ごくごく薄い雲みたいなものだとする。その雲の集まりをイメージすると、なんだか宇宙に似ているんじゃないかな。
気の遠くなるような真空のスカスカ空間の中に、いくつもの星があって、中には太陽のように水素が核融合反応して燃え続けてヘリウムに代わるというエネルギーの大きな活動をしているものがある。その太陽も、いつかは核融合反応し尽くして自重に耐えかねて潰れてしまう。我々の肉体が最後は劣化して消えるのと同じようにね。
でも、今はまだ、モワッとした雲みたいな集合体である我々の肉体──特に脳は、外からの様々な信号を処理して、仮想現実世界を生成し続けている。その仮想現実世界の中で、仮想現実である我々は、こうして酒を飲んでグダグダと与太話をしたり、ときには、「人生は……」なんて、深刻ぶった話をしたり、泣いたり笑ったり、鬱になったりもする。

……これって、文系的かな?

俺 いえいえ、十二分に理系の思考回路ですよ。
でも……なるほど。そういう発想から見れば、宇宙という極大世界の果てを目指したA博士と、原子をさらに分割すると……という、極小世界を目指したB博士が、それぞれの仮想現実の謎を解いた先で出会うという話は、凄い話だったわけですね。幸田くんは天才かもしれない、と。
そういうこと。これだけ複雑なことを、二人の博士の話に込めている……これは凄い話だな、と思ったのさ。
そこには、一見して大きな飛躍、矛盾、無理があるように思えるけれど、案外そうでもないんじゃないかと。
というのも、最近は科学の世界でも、極小の世界では、今までの常識では考えられないような動きが観察されてきてね。単に「小さなもの」という理解を超えた、未知の世界観が見え始めているんだよ。
今までの物理学や数式では説明不能な世界観、とでもいうか……。
これを「量子」という言葉で扱うようになっているのが、今の物理学界の最先端潮流かな。
極小の世界では、今までの物理学が通用しないんじゃないかと言っている学者もいるね。

俺 例えば、どんな?
私の友人だけれど、彼は「電子のような極めて小さな存在は、人に見られているときと見られていないときでは動きを変えるんじゃないか」と言っていたね。今はまだ証明はできないけれど、いろんな説を読んでいくうちにそんなことを考えるようになった、と。
彼はその話を学会では絶対に口にしない。トンデモなやつだと思われるからだと。でも、私にはポロッと漏らすんだから、私は学者としては認められていないんだろうねえ。学者としては認められていないけど、彼から、友人としては信頼されているってことで、嬉しいけどね。

俺 え? 今の……意味がよく分からんのですが……。
人に見られているときと見られていないときで動きを変える??
うん。私も分からない。何を言っているんだ? ってなるよね。でも、そう考えないと説明のつかないようなことがいろいろある、と彼は言っていたなあ。

また別の友人で、彼は両生類の研究者なんだけど、「カエルやイモリのオタマジャクシはワープするんじゃないか」と言いだして、学者生命を絶たれるピンチを招いたやつもいたなあ。
彼が言うには、オタマジャクシは何らかの条件下で「消える」ことがあるというのよ。
じゃあ、その瞬間を記録したら大変なことになるね、と言ったら、「それができない。なぜなら、人が見ているところでは消えないから」って言うわけ。
なんじゃそれ? だよね。
でも、人が見ている……つまり、観察しているときとしていないときで、素粒子が動きを変えるんじゃないかという話にも通じるよね。
最初はバカにしていたんだけれど、気がつくと、私もそうした世界観に入り込みつつあるんだよね。
歳を取って、死が近づいている今、どんどんそういうオカルト的な、というか、学者としてはバカにされるような思考に傾きつつあるんだな。
だって、そう考えたほうが楽しく死ねるじゃないか。
私が生きていると思っているこの世界は、私が見ている……つまり脳がそう認識している間だけ、ある一定の秩序や法則に従って動いている仮想現実だ、と。
だから、私の肉体が死んで、この世界を「見る」ことができなくなった瞬間、この仮想現実は消えて、同じ「世界」なのに、世界を形成しているすべての素粒子が別の動きをする別の世界が生まれる……そんな感じかな。
よく言われる「パラレルワールド」というのに似ているかもしれないけれど、ちょっと違う。パラレルワールドは、同じような世界が並列しているイメージだけれど、私が今想像しているのは、同じ世界の中に、意識の数だけ別の世界が多重に存在し、別々に動いている……というような……まだ、うまくまとまらないけれどね。
そんなことを考えながら死んでいければ、楽に死ねるかな、なんて思っているわけさ。


森水校長は、俺と酒を飲みながらこんな話をしていた半年後に突然死んでしまった。
森の中にキノコを採りに行って、マムシに咬まれたらしい。80代半ばになっていたから、十分に生きたと思う。
今、校長は俺が「見ている」この世界と重なりあっている別の世界で楽しく生きているのだろうか?

……そんな風に考える俺は、やはり理系よりは文系寄りなのだろうな。

ちなみに、俺が「量子」という言葉を聞いたのはこの森水校長と酒を飲みながら話した夜が最初だったが、そのずっと後、森水学園にやってきた若者によって、詳しく説明してもらえた。
その話はまた別のページに記しておこう。
(2005/11/28 記)

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