用務員・杜用治さんのノート(8)


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元山くんが「量子」の最新事情を話してくれた


2006年1月16日

俺が「量子」という言葉を初めて聞いたのは、森水校長が山でマムシに咬まれてショック死する半年前、1977年の11月のことだった。あれから30年経って、俺もあのときの森水校長と同じ歳になってしまった。
昨日、パラパラと雪が降る中、一人の若者が訪ねてきた。身体が冷え切っていたせいもあるのだろうが、顔色が真っ青というか、緑色に見えて、宇宙人でも現れたかと思った。まあ、俺の視力がおかしくなっているのだろうが、とにかく不思議な雰囲気の青年だった。
青年は「元山新一(もとやましんいち)と名乗った。東北大学大学院を中退した後に渡米し、向こうでアメリカ人女性と結婚したばかりだという。
なんかよく分からないが、アメリカ政府傘下にあるすごい研究所だかなんだかへ正規職員として誘われているのだが、そのためにはアメリカ国籍を取得しなければならず、どうしようか考えるために一時帰国したのだそうだ。
彼は高校生のときに森水校長の著作を読んで感動し、この学園にも何度かやってきては特別授業やゼミに参加していたそうだ。もちろんその頃は森水校長はいないのだが、森水校長が作った学園ということで、彼の中では「聖地」みたいなものだったのだろう。

元山くんは俺のことを覚えていて「用治さん、お元気そうでよかったです」なんて挨拶され、俺はすっかり困惑してしまった。
俺は彼のことはまったく記憶にない。超人的な記憶力を持つ俺が覚えていないということは、よほど目立たない子だったのだろう。

元山くんは森水校長のことを「心の恩師」と思っているようで、アメリカ国籍を取り、アメリカ人としてアメリカの政府傘下の研究所で働く決心をする前に、もう一度この場所を訪ねてみたかったのだそうだ。

俺は精一杯彼をもてなし(といっても、インスタントラーメンと烏骨鶏の卵くらいしかなかったが)、俺が知っている森水校長のエピソードなどを話してやった。
その中で、校長が死ぬ少し前に俺に話してくれた「量子」という不思議な世界があるらしいという話もした。
以下は、その話の流れで、元山くんが俺に教えてくれた最新量子論事情のようなことだ。

元山くん:さすがは森水センセですねぇ。同じ世界の中に、意識の数だけ別の世界が多重に存在し、別々に動いている……ですか……。量子の考え方から、そこまで発想を飛ばしていらっしゃったとは。

俺俺:  まあ……すごいのかねえ。
すごいですよ。30年も前のことですよね。あの頃はまだ、量子の不思議さについて、議論は盛んだったし、思考実験というか、理論を組み立てて結論に矛盾がないかどうかを検証するということはされていましたが、実際に電子を使った実験などはまだまだ始まったばかりでした。計測する装置がなかったし、精度もどこまで信頼できるか怪しかったから。
でも、それから30年の間に、実験装置もいろいろ作られて、数々の実験が繰り返された結果、驚くようなことが分かってきたんですよ。

俺 へえ~。例えばどんな実験?
量子の不思議さを説明する上で、いちばん有名なのは「二重スリットの実験」ですが、それはご存じですか?

俺 二重スリット? いや、知らないな。
じゃあ、そこから説明しましょう。
まず、この壁の前に衝立を置いて、その衝立に2本の細い穴を空けるとします。細い穴、というのが「スリット」ですね。縦に2本、数字の「11」みたいな感じで穴を空けます。そこにスプレーガンで細かい霧みたいな塗料を吹き付けると、向こう側の壁はどうなります?

そう言うと、元山くんはそばにあった新聞紙を畳んだものを手にして、壁際にかざしてみせた。

俺 細い隙間を通り抜けた塗料だけが壁に付くから「||」みたいな模様ができるね。
そうですよね。それは、スプレーから吹き出された塗料が細かい粒、「粒子」だからですね。粒子というのはそういう動きをするわけです。
では次に、同じことを光でやってみるとどうなると思います? スリットに向かってライトをあてると……

俺 同じじゃないの? 壁は「||」の形で明るく照らされるだろう?
そう思いますよね。では、実際にやってみましょうか……。

そう言うと、元山くんは部屋の中を探し周り、古い葉書1枚とカッターナイフを持ってきて、葉書の中央部分に「||」の形で細い穴を空けた。
じゃあ、やってみましょう。部屋を暗くしてください。

暗くした部屋の片隅で、元山くんは細い2本の穴を空けた古葉書に懐中電灯の光をあてた。その向こう側の壁に照らし出された形は「||」ではなく、なにやら何本かのモヤッとした線だった。

分かりますか? 二本線にはならないんですよ。こんな風に濃淡のある縞模様みたいに出るんです。

俺 へえ~。初めて知った。なぜなの?
光は「波」の性質を持って進むんです。粒子は直進するけれど、波は波紋を作りながら広がるんですね。水面に石を投げると同心円状に波が広がるように。
波紋には山と谷があるから、2本のスリットを抜けた光がぶつかり合うとき、山と山がぶつかるところは強く光って、山と谷がぶつかったところは打ち消しあって光が弱くなるわけです。それで、こんな風に濃淡ができて縞模様みたいになるんです。「干渉縞」っていうんですけれどね。

俺 へえ~。
それで、素粒子は大雑把に分けると、粒っぽい動きをするものと波っぽい動きをするものがあるんですよ。光を構成している素粒子を光子と呼ぶんですが、光子は波の性質が強いんです。
そこで、この実験を電子でやってみた科学者がいるんですね。
光の代わりに電子ビームを打ち出して、同じように二重スリットの壁を通り抜けさせ、向こう側のスクリーンにぶつかった場所を記録していったらどうなるか、と。すると、光と同じような波の干渉縞として現れたんだそうです。

俺 つまり、電子は光と同じように波の性質が強かった、ということね。
そういうことですよね。この実験の結果、電子は光と同じように「波」の性質を持っている、ということになったわけです。
でも、波というのは、大量の粒子がいっぺんに動いたときの話ですよね。粒子1つでは波にはならない。じゃあ、電子を1つずつ打ち出したらどうなるんだろう、と。1つずつなら粒子としての性質しか持ち得ないから、スプレーガンの塗料と同じように2本線が出るはずだ……と。
この実験は技術的に難しすぎて昔はできなかったんですが、1974年にミラノ大学で初めてこの実験が成功したと伝えられました。
その結果がとんでもなかったので、その後も、あちこちで、より精度の高い実験装置で実験が重ねられてきましたが、すべて結果は同じでした。

俺 とんでもなかった、って、どうだったの?
縞模様になったんです。

俺 それだとまずいの?
まずいというか……おかしいでしょ。光をあてたときと違って、電子を1個ずつ打ち出しているんですよ。その状態で波にはなりえないでしょ。普通に考えれば。波になるには大量の電子がいっぺんに出てこないと。

俺 あ~、そういうことか……。
この結果について、様々な仮説が出されました。中には、1個の電子が、2つのスリットを同時に通り抜けるような現象があるのではないか、というものもありました。スリットの直前までは粒子として動いて、通り抜ける瞬間に波のような振る舞いをして、スクリーンに到達したときはまた粒子に戻っている……というようなことですかね。その仮定自体が気持ち悪いし、たとえそんなことがあったとしても、スリットを抜けた直後に1個しかない電子が干渉し合うというのは理解できませんが、そんな現象が起きているのではないか、というわけです。
それで、今度は、1発ずつ打ち出した電子が、スリットのどっち側を抜けていったのかを記録してみたんですね。センサーをつけて。そうしたら、さらにとんでもないことになってしまいました。

俺 さらにとんでもない? 話がうまいねえ。続けて続けて。
なんと、今度はきれいに2本線になったというんです。そんなことってありえないでしょ。電子を一個ずつ飛ばしているのは同じなのに。なぜ結果が違うのか?

俺 そのセンサーとかが、なんか電磁波みたいなものを出していて、それが影響したんじゃないの?
はい。みんなそう考えました。だから、いろいろ条件を変えて、繰り返し実験していったんですが、やっぱりそうなる。どうにも説明がつかない。

俺 え~と……その「やっぱりそうなる」っていうのは、どういうこと?
人間が観測していると電子は粒子のような挙動をする。観測しないと波のように振る舞う、ということですね。つまり、人が見ているか見ていないかで、挙動を変える……と。

事務局・いつき:YouTubeにあるこんな動画を入れておきますね。
俺 いやいやいや……さすがにそれは何かの間違いだろ。
誰もがそう思いますよね。ありえない、って。でも、そういうことらしいんですよ。
で、この、今までの物理学や数学では説明不能な性質を持つ小さな物体のことを「量子」と名づけて、今も世界中の学者が、ああでもない、こうでもないって論争を続けているんです。
この位置や速度が測定できない「量子」という概念については、以前から理論としてはあって、様々な論争を呼び起こしていました。
「位置や速度が測定できない」というのを言い換えると、「位置と速度は同時には決まらない」ということです。
速度というのは位置の差異、つまり距離を時間で割ったものですよね。1秒で1メートル動けば「秒速1メートル」という速度が割り出せる。
でも、極小の世界では、位置が決まれば速度が決まらず、速度が決まれば位置が決まらなくなるという、わけの分からないことが起きるんです。
もっとざっくばらんに言うと、電子のような極小の物体──素粒子は、同時刻にいろいろな場所に存在できてしまう、というわけです。

俺 何が何だか……ペテン師の話を聞かされているような気分になってきたなあ。
そうですよね。偉い理論物理学者たちも、みんな匙を投げています。理解不能だ、と。
秒速1メートルで動く物体Aが北に向かって直線運動をしている。それなら10秒後にはここから北に10メートルの地点にいる……というのが、私たちの常識というか、信じてきた法則です。アインシュタインの相対性理論だって、基本は時間ごとの変化を方程式で表せる。ところが、量子の世界ではそれが通用しない、というんです。
アインシュタインは、死ぬまでそれを認めようとせず、猛反発しました。「神はサイコロを振らない」という言葉は有名ですね。

俺 デタラメな動きをするというだけならまだいいよ。でも、人が見ていると動きが変わるというのは、どうしても納得できないなあ。
はい。「観測されていないものは、観測されたときと同じように動いているとはいえない。観測されて初めて状態が確定する」……というのが量子の世界なんです。
例えば、原子核の回りに存在する電子の位置は特定できません。でも、範囲は大体分かっています。森水センセが喩えた例を使うなら、原子核がごま粒だとすれば、電子はそこから100メートルくらいの範囲内のどこかに存在しています。量子の考え方だと、そのうちAという地点とBという地点に同時に存在する電子というものもある、というんですね。これを仮に「電子AB」と名づけておきます。
電子ABはA地点かB地点のどちらかに存在するんですが、そこで人が測定をして「Aだった」と観測すると、その瞬間に電子ABではなく、電子Aが確定する、というんです。

俺 それは最初から電子Aだったわけだろ。
それがそうではなくて、人が観測するまでは、あくまでも電子ABで、Bの位置にある可能性も持った電子なんです。これを量子物理学では「重ね合わせ」の状態、なんていいます。

俺 いやいやいや。俺は認めないよ、そんなのは。それは最初から電子Aだったんだよ。A地点にあった電子を、勝手にBにあるのかも、って定義しているだけじゃないか。
例えば丁半博打で、壷の中のサイコロの目が丁か半かは、壷を持ち上げて中を確認する前にすでに決まっているわけだ。「丁でも半でもないサイコロの目」ではないよな。
もちろん、壷の中でサイコロを振っているときは分からないよ。コロコロ動いているわけだから、壷を伏せたときに丁になるか半になるかは半々の確率だよ。単にそういうことだろう?
それが違うんです。壷を伏せた後の状態でも、「丁でも半でもあるサイコロ」がそこにある、と考えるのが量子力学なんです。壷をパカッと開けて、初めて確定する……と。「確定する」と「判明する」は違うんです。

俺 何が違うの? 壷を開ける前の状態は分かっていないだけで、すでに確定はしているでしょ。
はい。普通はそうなっちゃいますよね。当然です。
これに関しては「シュレディンガーの猫」という思考実験が有名ですね。

俺 ああ、それって、なんか聞いたことはあるけど、どういう内容かは知らないな。
ひどいたとえ話なんですけどね。
不透明な箱の中に、半減期が1時間の放射性元素と、放射線を感知したら青酸ガスを出す装置と、猫を入れる。半減期が1時間ということは、1時間で核分裂する可能性は50%です。1時間後に箱を開けてみて、猫が死んでいる確率は50%というわけですが、箱を開ける直前の猫は死んでいるか生きているかではなく、「死んでいると同時に生きている状態」なのか? そんなわけの分からん猫など存在するわけがないだろう、と反論したんですね。

俺 ひどい話だな。もっとマシな喩えはなかったのかね。
はい。ほんとにひどい話で、シュレディンガーさんに文句を言いたいですが、1961年に亡くなっていますので、今文句を言っても届きません。
とにかく、そんなわけの分からん理論を受け入れるわけにはいかん、という学者はたくさんいました。
アインシュタインも「月は、人が空を見上げているときだけ存在しているとでもいうのか?」と反論しています。

俺 俺もアインシュタイン博士に一票かな。元山くんはどうなの?
僕は……分からないですね。
分からない、というのがいちばん正直な態度だと思います。
量子力学というのは、未だにそうした議論が絶えない世界なんです。だから、量子を教える人たちも「量子論を理解しようなんて思うな。無理だから。計算方法だけ覚えろ」みたいな教え方をしています。
計算式はいろいろ分かってきているんです。確率やら行列やらの数学の世界ですね。その結果、量子コンピュータというものもできています。今のところ、計算できるのは確率みたいなものに限られていますけれど。
僕はそっち系統のことも学んだんですが、学べば学ぶほど、若いときに抱いていた世界観からどんどん離れていくような気になってました。
そういう思いもあって、今日はここにやってきたんですよ。
自分が若いときに感動した森水センセの精神に、もう一度触れたいと思って。
来てよかったです。用治さんに会えて、森水センセのお話をいっぱい聞けて。
特に、さっきの、A博士とB博士が宇宙の果てと素粒子の世界で出会うというお話。それに対しての森水センセの反応。
自分が忘れていたものがなんだったのか、分かった気がします。
ありがとうございます。


その夜、元山くんは、かつて森水校長が寝泊まりしていた部屋に寝袋を持ち込んで寝た。
元山くんが隣室に退去した後も、俺はなかなか眠れずに、今聴いた話を反芻していた。
生きていると同時に死んでいる猫……もしかして、眠りの状態は、寝ている本人にとってはそういうことなのではないか?
寝ている俺を、俺は観察することはできない。その状態の俺は「生きていると同時に死んでもいる」シュレディンガーの猫なのではないか?
しかし、俺以外の人間は俺が寝ていても俺を観察できるから、俺が生きていると「確定」できる。
俺が存在しているこの物理世界もまた、俺以外の人間が観察しているから「確定」して存在している。
だから、「俺」も「この世界」も、観察している他の意識がある限り、「確定」していて、消えることはない
そして、俺が目覚めると同時に、俺は俺自身を観察できる。俺という仮想現実が、物理法則に従うこの世界の中で再び動き出す。
……そういうことなのではないか?

そんなことをうつらうつらと考えながら、俺は眠りに落ちていった。

翌日、元山くんは、別れ際にこんなことを言っていた。

昨夜は寒くてなかなか寝付けなくて。そんな中でこんなことを考えたんですよ。
「時間」というものも、素粒子でできているのかもしれないな、と。
時間をどんどん細かく切り刻んでいくと、最後、これ以上は分けられないくらいの短い単位になる。それが「時間の素粒子」だと。
時間が素粒子の集まりなら、素粒子は観測されない限り不特定な動きをするんだから、人間が観測できない、過去に向かう素粒子もあって、時間が戻ることもあるんじゃないか……と。
僕も、森水センセのような緩さを死ぬまで持ち続けたいなと思いました。
ありがとうございました。


そう言うと、元山くんは満足そうな顔で去って行った。
彼が今どこでどうしているかは分からない。アメリカに戻って、アメリカ人女性との家庭と、アメリカ政府傘下の研究所を行き来しているのだろうか。
どんな生活をしているにせよ、彼はもはや、国籍だの国家だのという狭い概念にとらわれる人生は送らないだろう。

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用務員・杜用治さんのノート
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